子規の風呂敷

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  正岡子規とは

解説:近現代俳句研究者・愛媛大学准教授 青木亮人

 正岡子規は慶応三(一八六七)年、松山藩士族の家に長男として生まれます。父が早く亡くなり、子規は正岡家を背負う存在として育ちました。

 幼少期から士族の教養である漢詩文を教わり、中学生の頃は自由民権運動に共鳴しました。明治維新後の日本をより良くせねばならない、そう感じた彼は首都の東京行きを熱望し、帝国大学に入学します。同窓には夏目金之助(後の漱石)らがいました。

 大学在籍時に子規は喀血し、結核が発覚します。それは不治の病で、余命が長くないことを意味しました。すでに勉学の意欲が薄れ、小説や俳句に関心を向ける日々だった彼は小説家を目指し、物語を執筆するもうまく行きませんでした。彼は大学を中退し、日本新聞社に入社して郷里から母と妹を呼び寄せ、一家の長として働きます。新聞「日本」に俳論や句を発表し、同じ松山藩士族の柳原極堂、河東碧梧桐、高浜虚子ら子規を慕う人々の作品を選句して「日本」に掲載しました。これらが後に俳句革新運動と呼ばれる第一歩となります。

 やがて日清戦争が勃発し、子規は無謀にも従軍記者になる決意をしました。旧松山藩主拝領の刀を帯びて形見の写真を撮り、大陸に渡りますが、重篤状態で帰国する羽目に陥り、松山で療養します。折しも夏目金之助が松山中学校に英語教師として赴任しており、子規は彼の下宿で約一ヶ月強を過ごしました。

 容態も落ち着いた子規は東京に戻り、精力的に論や句を発表します。しかし、俳壇は旧態依然とし、しかも脊椎カリエス(結核菌が背骨や腰骨を溶かす病気)が判明して余命数年の運命を突きつけられました。子規は絶望しますが、一刻も早く俳句革新をせねばと思いつめます。

 病床の子規は必死でした。俳壇のほぼ全てを敵に回しても動じず、短歌や文章の革新運動にも乗り出すなど獅子奮迅の活躍を見せます。俳壇や歌壇でごく少数だった子規派は、気付けば近代文学に巨大な影響を与える存在になりました。

子規は、明治日本が欧米列強の植民地にならないために政治も文学も優れたものにせねば、とカリエスの激痛や高熱に耐えながら俳句や短歌の革新に没頭した節があります。その子規の姿に周りの人々は畏敬の念を抱きました。

子規が三四歳の若さで早世した後、「ホトトギス」編集者となった高浜虚子は、後年、子規は偉かった、とにかく頭が上がらなかった、と述懐しています。子規のそばに居続けた虚子の一言からは、革命児にしてサムライ子規の佇まいが彷彿とされるようです。


  子規の風呂敷俳句15句

解説:俳人・子規新報編集長 小西昭夫

春風にこぼれて赤し歯磨粉

 春風にこぼれた歯磨粉が春の来た喜びを伝えてくれる。歯磨粉の赤い色はまさに生命の色。この時期の子規は左腰が腫れ身動きも容易にできない状態であった。それを知ると歯磨粉の赤色が不吉な色にも思えてくる。明治29年作。季語「春風」(春)

毎年よ彼岸の入りに寒いのは

 「母の詞自ら句になりて」の前書きがある。子規のお母様が口にした言葉は見事に十七文字であり、彼岸の入りという季語もある。つまりは立派な俳句である。この母にして子規があるのかも。明治26年作。季語「彼岸の入り」(春)。

春や昔十五万石の城下かな

 かつて十五万石の城下として繁栄した松山へのオマージュである。子規は決死の覚悟で日清戦争に従軍するが、その直前に松山に帰郷した時の句である。末期の眼が切り取った松山なのかもしれない。明治28年作。季語「春」(春)。

畦道の尽きて溝あり蓼の花

 畦道を歩いてゆくと畦道の尽きるところに出た。そこには溝が掘ってあり蓼の花が咲いていた。平凡な風景だが嫌味がない。子規はそこに写生の妙を感たのである。明治28年作。季語「蓼の花」(秋)。

柿の花土塀の上にこぼれけり

 柿の花は黄緑色の目立たない花であり、大部分は自然落花する。何気ない風景の写生だが嫌みがない。須磨での療養中の句だが、何気ない光景が子規に回復の力を与えた。明治28年作。季語「柿の花」(夏)。

夕焼や鰯の網に人だかり

 夕焼は夏、鰯は秋の季語だが秋の句に分類されている。鰯漁の地引網を引く光景だろう。子規が村上霽月を訪ねてた時の句。別案に「タ栄や鰯の網に人だかり」がある。明治28年作。季語「夕焼」(夏)「鰯」(秋)

六月を綺麗な風の吹くことよ

 六月はうっとうしい。それだけに、風の心地よさが感じられる。この句には「須磨」の前書きがある。日清戦争従軍の帰路、大喀血をした子規は神戸病院、須磨で療養する。奇麗な風には回復期の子規の喜びが書き止められている。明治28年作。季語{六月}(夏)。

夕風や白薔薇の花皆動く

 暑い夏の一日が終わると夕風が気持ちよく吹き抜けていく。そんな命が甦る一瞬にはそれを祝福するように白い薔薇の花びらも皆動いているのだ。実に気持ちのいい写生の一句である。明治29年作。季語「薔薇」(夏)。

柿食へば鐘がなるなり法隆寺

 柿を食うことと鐘が鳴ることには何の関係もないがそこが面白い。この句には「法隆寺の茶店に憩ひて」の前書きがあるが、子規が聴いたのは東大寺の鐘である。これが子規の写生の面白さである。明治28年作。季語「柿」(秋)。

白牡丹ある夜の月に崩れけり

 それぞれの読者の「ある夜」があるだろうが、牡丹の中で最も清楚な白牡丹が崩れたのだ。崩したのは月。読者ごとのドラマの感じられる句である。明治25年作。季語「白牡丹」(夏)。

いくたびも雪の深さを尋ねけり

 何度も雪の深さを尋ねるのは自分で確かめられないから。身動きの自由にならない子規の病状を重ねなくても、雪が降ることを喜んでいることが伝わってくる。明治29年作。季語「雪」(冬)。

夏嵐机上の白紙飛び尽す

 急に天候が変わって、風を通すために明け放してあった部屋に強い夏嵐が吹き込んできた。その風は机上に置いていた白紙を全部吹き飛ばしてしまった。子規が感じた爽快感。明治29年作。 季語「夏嵐」(夏)。

春風や象引いて行く町の中

 動物園に運ばれていく象だろうか。それとも昔将軍に献上された象が町中を引かれる空想の句だろうか。現実離れした面白さがある。子規の時代には上野動物園の象が人気だった。明治30年作。季語「春風」(春)。

フランスの一輪挿しや冬の薔薇

 一輪挿しに冬薔薇を活けるだけでもお洒落だが、それはフランスの一輪挿し。お洒落度が倍加するが、この花瓶は叔父の加藤拓川からのフランス土産である。明治30年作。季語「冬の薔薇」(冬)。

をととひのへちまの水も取らざりき

 「へちまの水」は痰を切るのに効果がある。特に十五夜に採るのがよいとされた。採り忘れたのか、取らなかったのか。子規の絶筆3句の一句である。明治35年作。季語「糸瓜」(秋)。


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  子規の風呂敷、SHIKI-MONOとは

 松山が生んだ俳人・正岡子規の俳句をデザイン化した風呂敷です。子規の俳句ならびに四季を楽しめる商品として「SHIKI-MONO」と名づけました。大小2サイズ、2色展開で、包材としてだけでなく、ディスプレイして楽しむこともできます。
 繰り返し使える風呂敷は環境にも優しく、和の心を感じられる日本的なお土産物としてご利用ください。

子規の俳句風呂敷【小:50cmオレンジ】

子規の俳句風呂敷【大:70cmブルー】

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